こんにちは、シエン(@m12n08.jp)です。
このページではオンコリスバイオファーマ 浦田社長が上場時に日本ベンチャーキャピタルの取材に応じて受けられたインタビューを紹介致します(ネットで拾ってきました)。
オンコリスバイオファーマの創業期の苦労を知ることが出来ます。
縁あってこの記事にたどり着かれた方は是非、最後までお付き合いをお願いします。
テロメライシンの上市まであと数年待つ必要があります。
しかし、創業(2004年3月)以降の約16年の浦田社長と役員・社員の方々の苦労に比べれば、2020年3月に国内 食道癌 治験第二相が始まった現段階(2020年6月時点)から上市までのあと数年の我慢は「あと、たった数年」であると感じました。
1.2013年上場時の浦田社長インタビュー記事(第一話)
インタビュー: 2013年12月6日
時価総額300億円。本日、東証マザーズにオンコリスバイオファーマが上場を果たした。
HIV感染治療薬で大手製薬会社から総額290億円のマイルストン契約を勝ち取ってから3年、堂々たる上場だった。
ただ、その華々しい上場の裏側で浦田泰生社長は、資金繰りに追われる10年間を過ごした。
1)毎日カレーで資金切り詰め
「もっぱら週末の日課はカレーを煮ること。一週間分をまとめて煮込んで、毎晩食べる」(浦田社長)
そうまでして資金を切り詰めなくては社員の給与を工面できなかった。
同社はスタートこそ好調だった。設立からほどなくして、VC17社から、およそ5億円を調達。
その後も調達を繰り返し、最終的にVC27社から46億円を調達した。前職JT(日本たばこ産業)で抗エイズ薬の開発に成功した実績と、バイオベンチャーブームに沸く時代の後押しがあった。
そして開発は進み、臨床試験を実施していたフランスから「10日間で97%の血中HIVが消える」という抜群のテスト結果があがってきた。
しかし、ライセンス契約の交渉先からは追加の試験データを要求された。
追加の試験を実施するためには新たな資金も必要だった。
計画がずれれば、バイオベンチャーの資金繰りは途端に悪化する。
想定外の事態にVCとの追加資金調達の交渉は難航した。
そして、みるみるうちに手元の資金は減っていった。
「この薬は間違いなく物になる」(浦田社長)
シーズ(薬の種)から市販の薬品になる確率は約2万分の1という世界。
「HIV感染で苦しむ患者さんの為にも、ここまできて諦めるわけにはいかない」(浦田社長)
2)待ちに待った大型契約
逼迫した状況のなか、役員3人、カードローンで100万円、200万円と足りなくなるごとに資金を掻き集めては社員の給料を工面し続けた。
「役員全員報酬をゼロにしても社員への給与だけは遅れないで払おうと決めていました」(浦田社長)
半年近く役員報酬が一円もないこともざらにあった。
飲み会はもっぱらカップ酒。会社近くの自販機前で酒宴をはるのがその頃唯一の楽しみだった。
そして2か月後、世界第12位の製薬メーカー、ブリストル・マイヤーズ・スクイブとの総額290億円におよぶ大型契約が待っていた。
「契約が決まるまでヒヤヒヤでした。契約締結が先延ばしにされれば、その瞬間、会社は潰れる。
借入はもう限界、口座にその月の給与を払う資金すら残っていなかった」(浦田社長)
米国でオンコリスバイオファーマとの契約是非が決議される役員会は日本時間の未明。
その夜、「よし、結果が出るまで会社で待機しよう」浦田社長は役員に呼び掛けだ。
一旦夕方に帰宅した役員たちが終電で出社し米国からの報せを待った。
待ちくたびれた朝4時、米国で張り付いていた社員から電話が入った。
「社長、通りました、290億円、通りましたよ」
7年間の苦労が報われた瞬間だった。
3)上場による調達資金で開発を加速
あとは、上場への道を突っ走るだけだった。
3年間の準備を経て2013年10月31日、東証マザーズへの上場が承認された。
同社は今後、上場で調達した60億円を元手にHIV感染治療薬や抗癌剤の開発を次々と推し進める。
世界のHIV感染者数は3,530万人(※2)、毎年200万人を超える人数が新たに感染しており、現在のところ、一度感染したウイルスを取り除く方法はない。
「これからですよ、見ていてください」
浦田社長は快活に話した。
2.2013年上場時の浦田社長インタビュー記事(第二話)
12月6日、東証マザーズに上場を果たしたオンコリスバイオファーマ。
浦田泰生社長と、創業を後押ししたNVCC奥原主一が対談。
上場までの舞台裏を語りつくした。
1)ファーストエスコ創業者 筒見氏とは小学校の学友
奥原「上場おめでとうございます」
浦田「ありがとうございます。おかげさまでここまで来ることができました」
― 奥原はおもむろに名刺を取り出し。
奥原「初めてお会いした時はJT勤務時代でしたね」
浦田「お会いしたのが03年、ちょうどそれから10年後の10月31日に上場承認を受けたのですね。運命的なものを感じますね」
浦田「東証の方から上場承認の電話が来た日はオフィスでまんじりともせず待っていたんですが、午前11時に“上場が決定しました。
おめでとうございます”と電話があった。
それから関係者の人に早くそのことをお伝えしたかったけど、東証のホームページに承認のリリースが出るまで口外してはいけなくて。
何度も何度もブラウザの更新ボタンを押して、ようやく3時半リリースが出て、奥原さんに真っ先に電話したんです」
奥原「最初は、ファーストエスコの筒見憲三社長からの紹介でお会いしましたね。
筒見社長は、私の担当で投資していました」
浦田「筒見さんとは同じ犬山北小学校(愛知県)で野球やキャンプをして遊んだ仲。
彼が事業を順調に拡大し、新聞に華々しく取り上げられているのをみて電話しました。
バイオベンチャーを立ち上げようと思っているのだけど資金が集められるかなってね、それですぐに奥原さんを紹介してもらった。
会ってすぐに奥原さんが投資したいと言ってくれたおかげで、よし起業しようと踏ん切りもついたし、その後の資金調達にも弾みがつきました」
2)“倍返し”の投資術
奥原「当時は平社員でしたから、投資に至るまでは大変でしたよ。
社長に話を持っていくと“君はバイオの知識なんかないだろう、投資した実績もないじゃないか”と相手にしてもらえなかった。
それから必死に勉強して資料をまとめて2か月後に改めて提案すると”君が2か月ぐらいでわかるようではたいした企業のはずがない”
奥原「それじゃあ、どうしたらいいのかと。結局粘りに粘って3000万円だけ投資を許してもらえました。
その後、追加投資をして計1.1億円投資をしました。
でもファンド満期が来てしまい売却をお願いすることになってしまいました。
その後、しばらくしてまた投資する機会があり、その分は無事上場に至った」
浦田「応援してくれていた多くのVCさんには報いることができず本当に申し訳なかったです。
振り返ると最初から最後まで本当に資金繰りに追われる日々でした。
初めて投資を受けた時、奥原さんから”ゴー・パブリック起業公開物語”という本を頂きました。
その本は”死の谷”があるぞ、覚悟しろなんて散々書いてある。
“まさかぁウチは大丈夫だろう”なんて思っていましたけど、まさに3年近く、死の谷を経験しましたね」
3)単身赴任先で家族にだまって起業
浦田「当初起業する気なんてさらさらなかったですよ。
でもJTで研究していた抗癌薬の開発がたばこ事業の悪化を理由に中止されてしまった。
それで、一緒に研究していた岡山大の先生の所に会社の都合でこれ以上研究できなくなりました、と謝りに行った。
そしたら先生嬉々として、そりゃちょうどいい、一緒に会社を立ち上げようって。
浦田「先生たちは簡単に言いますがね、子供2人はまだ小学生、家もローンで買ったばかり、とてもJTを飛び出すわけにはいかなかった。
家族にも相談できないままでいました。
しかし、岡山に仕事で行くたび、学会で東京に出てくるたびに教授たちに口説かれ、口説き落とされたような形ですね。
家族には黙って起業してしまった。家族は京都、私は単身赴任で東京にいて、その間に…」
3.2013年上場時の浦田社長インタビュー記事(第三話)
12月6日、東証マザーズに上場を果たしたオンコリスバイオファーマ。
浦田泰生社長と、創業を後押ししたNVCC奥原主一が対談。
前回に続く上場までの舞台裏の話題から、浦田社長の生い立ち、事業にかける想いまで、両者とも身を乗り出して語り合った。
1)自己資金700万円半年で底を尽く
奥原「最初、浦田社長の自己資金700万円、他に大学の先生などから集めた分を加えて3,000万円ぐらいで事業を始められたのですよね」
浦田「そうです。昼はオニギリ握って持っていって、極力お金を使わないように切り詰めた。
でも資金は半年ぐらいでなくなってしまって。設立の時だけでなく、資金繰りは常に苦しかったですよ。
社員に給与を払わなくちゃいけないので、銀行のカードローンを三行からそれぞれ限度額いっぱいまで借りていた時がありました。
そしたらある朝、家内がすごい剣幕で娘を連れて部屋にやってきたのです。
“銀行から何本も電話があった、いったいいくら借金しているの”って。
いやいや融資枠をもらっているだけだからとごまかして(笑)。
カードローンでやっと社員の給与分のお金を工面したのに、今度は会社の口座をそっくり都税事務所にから差し押さえられた時もあって、さすがに万事休すと思いましたね」
2)米国クリスマス休暇で倒産の危機!?
~その後、同社は世界第12位の製薬メーカー、ブリストル・マイヤーズ・スクイブと総額290億円の大型ライセンス契約を締結した~
浦田「ブリストルと契約が決まった後も大変でした。実は、その時すでに口座には給料を払うお金すら残っていなかった。
でも12月13日に契約して、24日クリスマス休暇に入る前には最初のライセンスの振込があるはずなのでそのお金で給料を払おうと思っていました」
浦田「ところが、24日になっても振込がない。
アメリカに確認すると支店名を書き忘れる先方の手続きミスで送金がニューヨークの銀行で止まっていることがわかった。
それで、クリスマス休暇中の経理担当者に無理を言って再度振り込んでもらった。
よしこれで大丈夫だと思ったら、27日、28日と毎日確認するが送金がない。
また方々に問い合わせて確認すると、今度は国内の銀行には届いているが、多額の為替で手続きに時間がかかって出金できていないという。
とにかくなんとかお願いします、年内に出金できないとまた、口座は差押えられて、倒産してしまう。
無理言ってやっと口座に資金が振り込まれたのが12月30日。本当にギリギリでした」
3)プロギタリストから薬学の道へ転身
奥原「お生まれは犬山で、ご実家は薬局を営まれているとか」
浦田「父親は85歳でまだ現役でお店に立っていますよ。
田舎の小さな店だから、湿布を出しただけで近所の人はありがたがって畑で採れた野菜なんかを持ってくる。
そんな親の働く姿をみて育ちました」
浦田「京都薬科大を卒業してから半年ぐらい音楽事務所に入ってプロのギターリストをしていました。
でも有名アーティストのツアーに同行して演奏しても給料が出たり、出なかったり。
これで食うのは厳しいなと、でも東京に出る実力もないし、ということで大学院に入り、薬学を本気で極めようと猛烈に勉強を始めました」
奥原「京都薬科大学大学院で酵素の研究をされていたのですよね。研究者の道も考えていたのですか」
浦田「そう、研究者になれるとばかり思っていたのですが急にポストがなくなったと言われて就職先探し。
小野薬品工業に面接にいったら”ヒゲを剃らずに来るとはいい度胸だ”と気に入ってもらい入社できました」
奥原「その後、JTに移られて約10年間勤務されて47才で起業。
JTにそのままいたほうが良かったと思ったこともありましたか」
浦田「起業してから眠れない夜は何度もありましたよ。
でも会社員のままでいても同じように苦しかっただろうなと、やりがい、生きがいがなく生きることも同じぐらい苦しいことだと思います。
世界中の人に役立つ薬を生み出せる喜び、これは何物にも代えられませんね」
~対談終了後、両者の今後のさらなる発展を祈念して固く握手を交わした~